橿原市議会 2022-12-01 令和4年12月定例会(第1号) 本文
我が国最初の条坊制を取り入れた都城である藤原京は、平城京に遷都されるまでの16年間、持統・文武・元明天皇の三代にわたり、古代日本の首都が置かれておりました。
我が国最初の条坊制を取り入れた都城である藤原京は、平城京に遷都されるまでの16年間、持統・文武・元明天皇の三代にわたり、古代日本の首都が置かれておりました。
この事業の意義、概略を簡単に述べますと、昭和35年3月10日、元明天皇の平城京遷都から1250年に当たる年であったことから平城遷都祭の記念事業を行うことになり、奈良の都が築かれた7代の天皇をたたえ、奈良市の発展を併せて祈念しながら、この事業を観光協会自主事業として60年間行ってまいりました。 議長にお許しをいただき、お手元に配付した資料が、当時開催された年の記録写真になります。
和銅3年、西暦710年、この奈良の地に平城京の都が置かれ、七十余年、日本の首都として栄え、「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」と歌われたように、天平文化の華を大きく咲かせました。また、その後も仏教の中心地、南都として1300年余り、日本の心のふるさととして栄えてまいりました。
その後も同研究所によりまして、住宅建設などに伴う数平方メートル程度の小規模な調査が数件実施されておりましたが、平成4年から平成8年にかけて行われました発掘調査により、お寺の中心である金堂や東西それぞれの塔、中門、回廊の構造や規模などが明らかになったことに加えまして、藤原京から平城京への遷都、都を移されたときでございますが、本薬師寺の建物が移築されたのではなく、新たに平城京の薬師寺が建立されたことが判明
我が国最初の条坊制を取り入れた都城である藤原京は、平城京に遷都されるまでの16年間、持統天皇、文武天皇、元明天皇の三代にわたり、古代日本の首都が置かれておりました。
我が国最初の条坊制を取り入れた都城である藤原京は、平城京に遷都されるまでの16年間、持統天皇、文武天皇、元明天皇の三代にわたり、古代日本の首都が置かれておりました。
桜井市は、ヤマト王権発祥の地であり、その後、飛鳥時代、藤原京、平城京の時代と歴史の流れていきます、先ほど工藤議員がおっしゃったとおりでございます。これらの歴史的なつながりがあり、この強みを生かして、連携をしていきたい。まずは、歴史文化の発祥の地、まほろばの地は桜井市であるということをまずは思っていただいて、そして、次は飛鳥の時代というふうになっております。
奈良の平城京、飛鳥がそうです。そういったことで、飛鳥の国営公園内に、あと、藤原をつけていただく。飛鳥・藤原国営公園ということの中でそれは進んでいっていただきたいし、今しかないと思います。やはりこのチャンスを逃せば、多分なかなかできないだろう。それをやはり市長は自ら、私も一緒ですけど、過去20年間、藤原京に関していろいろと見てこられました。これをやっぱり今こそ発揮すべきです。
また、平城京復元模型の活用についての質疑がありました。 次に、本年2月19日に質疑を行いました。 主な質疑は次のとおりであります。 まず、委員より、アスベスト対策について、JVと市がそれぞれ行った調査結果が異なる場合のアスベスト対策の実施の有無について。また、工事期間中の議会のインターネット中継の方法や最終的な議会開催場所の決定時期についての質疑がありました。
大仏建立の詔勅があった奈良時代、その数年前に天平の疫病が大流行し、平城京においても相当の死者が出たとされています。当時の為政者である藤原氏四兄弟が相次いで死去するなどし、政治的、社会的な混乱を鎮めるための大仏建立であったのではと言われています。 今、中国の武漢市に端を発したと言われている新型コロナウイルスの世界的な蔓延が我が国の政治経済に影響を及ぼしています。
具体的には、市内で開催されますイベント等におきましては、来場者アンケートが行われているものもあり、その結果から推察をいたしますと、例えば珠光茶会や平城京天平祭、もしくはなら燈花会においては、おおむね約6割の方が来場回数2回以上の、いわゆるリピーターであると回答されております。
平城京(奈良県)・藤原京(橿原市)・飛鳥京(明日香村)の三都で連携し、ご朱印書きは奈良教育大学書道専修科の学生の皆さんにご協力いただきました。2日間限定の藤原京特別ご朱印を記帳し、2日間で142名の方にご参加いただき、藤原京の知名度の向上、平城京から藤原京への周遊の促進につながるイベントとなりました。
我が国最初の条坊制を取り入れた都城である藤原京は、平城京に遷都されるまでの16年間、持統天皇、文武天皇、元明天皇の三代にわたり、古代日本の首都が置かれておりました。
次に、委員より、平城京復元模型は、今でも古代都市平城京の様相を一目で理解できる唯一の存在であり、現在においてもその価値は色あせていないと言える。今回の耐震化、長寿命化工事において、取り扱いについてどのように検討されているのか。また、窓口業務における1階エリアは、年中市民が往来している。
その中で、先ほどおっしゃったように、確かに橿原市の、藤原京がございましたけれども、さっき佐藤議員がおっしゃったとおり全て除却して平城京へ持っていったということで、何も残っておらないということも事実でございますけれども、余計にそれを踏まえた上で、我々としたらこの一帯を含めて知っていただきたいということでございます。
その主なものとして、発掘調査の進捗状況はに対し、平成31年2月25日から実施し、令和元年8月8日をもって完了しており、江戸時代の礎石列や粘土を採取した穴が確認されましたが、平城京南方遺跡にかかわるような遺構は確認できなかったと聞いておりますとの答弁がありました。
うちらの橿原市というのは、要は平城京に移ってしまうまでの都であって、平城京をつくるときの木とか建物の一部にうちらのものを持っていかれたという歴史があって、今現在、建物が残っていないという部分もあります。
平城京を基盤とする世界遺産であります古都奈良の文化財の圧倒的な知名度に隠れまして、これまで余り取り上げられることのなかった本市西部の豊かな文化遺産の紹介が、このエリアにおける県市連携を通じて観光客誘客につながりますように、期待をしたいと思います。
重点観光スポットとして位置づけている明神山の山頂は、奈良盆地側には箸墓古墳や飛鳥といった大和王朝誕生期から藤原京、平城京が見渡せ、大阪平野側に目を転じれば2019年、平成31年、今年でございますが、世界遺産の登録を目指している百舌鳥・古市古墳群を初め、あべのハルカスや明石海峡大橋と、1800年の歴史を俯瞰できる歴史的眺望となっておりまして、ほかにはない貴重なまちの資源として明神山の魅力を最大限高めるとともに
なお、通告しておりました平城京復元模型につきましては、都合によって質問を取り下げさせていただきます。 それでは、早速質問に入らせていただきます。 初めに、富雄丸山古墳と周辺の県市連携について、市長に2点お尋ねします。 私は、これまでの定例会や委員会を通じ、4世紀後半に完成したとされますこの古墳につきまして、約半世紀ぶりの発掘調査を繰り返し主張、要望させていただきました。